(韓智仁)の修士学位論文「音の人類学再考:サウンドスケープ、身体、イメージ」(2019年度、東京大学大学院総合文化研究科提出)の要旨と参照文献です。私はこのテーマで研究を続ける予定は現状ありませんが、どこかのどなたかが、巨人の肩がどこにあるのかくらいの指針的なブックガイドとして活用していただければ嬉しいです。

キーワード:サウンドスケープ、音楽人類学、サウンド・スタディーズ、感覚人類学、共感覚、イメージの人類学

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論文要旨

本論文の目的は、人間の生と結びついている音を人類学の対象として分析・記述する際に、どのような理論に依拠することができるかを考察することにある。

音の経験あるいは聴覚経験は、音楽や言語活動以外のものであっても、文化・社会的な側面を持つものであるとされている。そしてそのような、音の経験の文化・社会的側面をテーマとして探究を行う研究群として、近年サウンド・スタディーズと呼ばれる領域が興隆している。サウンド・スタディーズは、文化人類学、歴史学、社会学、カルチュラル・スタディーズ、科学技術論、メディア研究などにまたがる学際的な研究領域であり、「感覚の人類学」や「身体の人類学」も参照しながら、音の経験がいかに文化・社会的に構築されているのかを論じる。

音の経験の文化・社会的側面を論じる際に前提とされているのは、音の物理的な振動を受け止める聴覚器官の解剖学的な働きは「自然」で普遍的なものとしてあるが、社会集団のなかで一種の文化として獲得されている身体技法であったり知識のために、音の経験あるいは聴覚経験は認知の過程において文化・社会ごとに異なるものとなる、という考えである。

しかしながら、感覚経験が文化・社会的に構築されている、という議論では、文化や社会に還元されないような、音の直接的な身体経験の次元に焦点を当てることができない。またあるいは、文化や社会が流動的で、実体があるものとしては成り立たないような場合に、音の文化・社会的側面を論じることは困難である。

ここで、ブリュノ・ラトゥールが著書『虚構の近代』で論じているように、上述のような普遍的な「自然」とは、それ自体は実在するものではなく、人間とモノといったアクターの独特の配置関係の中で構成されているものであると考えたい。すなわち、物理的な振動としての「音」と、物理的・解剖学的な機構としての「聴覚」をもとにした、「音とは聴覚を通して経験される振動である」という一見素朴な発想も、さまざまな人やモノの独特の配置関係によって成立している特殊なものだと考える。

そして、実体的な「文化」や「社会」を前提とせずに、生の経験の次元から音を捉えるという視座のもとで論じる音や聴覚とは、ラトゥールの「社会的なもの(the social)」という用語にならって、「音響的なもの」や「聴覚的なもの」と言うこともできよう。

音や聴覚がいかに生と結びついているかを探究するとき、その問いは、本来多様で振れ幅があるような「音響的なもの」や「聴覚的なもの」が、規則や制度や慣習といったいかなる理由によって、「音」や「聴覚」という安定してみえるものとしてまとめあげられているのか、あるいは「音響的なもの」や「聴覚的なもの」の中でいかなる生があるのか、といったものとなろう。本論文の目的は、「音響的なもの」や「聴覚的なもの」の広がりや深さを測ることを通して、音を人類学的に考察するための議論の基礎を検討することにある。

論文の構成  上記の方針のもと、論文は以下のように構成されている。第1章では、音が生といかに結びついているかを考察する際に、身体経験の次元から考える意義と、そこで踏まえられるべき論点を検討した。サウンド・スタディーズの論点の整理を通して、実体的な「文化」や「社会」を想定したり、聴覚の経験が「文化」や「社会」によって構築されている、といった議論の限界が明らかにされた。その限界を乗り越えるために、サウンドスケープのアイデアを参照しつつ、身体で経験される音を、聴覚以外にもひろがりを持つ、流動的・生成的なものとして捉えること、そしてそれを踏まえた上で、記号的・象徴的な音の経験がいかなるものであるのかを把握することが、音のなかで営まれる生を考察するうえで肝要であることが明らかにされた。

第2章では、聴覚と聴覚以外の感覚が連続的であるような経験について、共感覚者や盲者、聾者の経験についての記述をもとに考察し、そして人類学者ティム・インゴルドによる議論を参考に、身体と環境の関わり合いという観点から音の経験を検討した。ここでは、音の経験は、環境と身体の応答をもとにして生み出され、意味付けされ、そしてそれは聴覚以外感覚と混じりあったものであり、そして前−客観的な経験の次元から生起するものであることが提示された。

第3章では、第2章で検討されたような音の直接的な経験が、いかにして文化・社会的な音の経験となるのかが考察された。第3章前半では、人類学者スティーブン・フェルドによる、パプアニューギニアのカルリの人々の民族誌と、「音を通した思考」を意味する「音響認識論」の議論から、直接的な音の経験と言語的・音楽的な音の経験のなかでの生が、具体的な一例としてどのようなものであるかが論じられ、音は個人や人々の集合のあいだを、言葉や歌や神話などさまざまに変化しながら転生・連鎖するものであることが示された。第3章後半では、人類学者の箭内匡による「イメージの人類学」の議論をもとに、音とはイメージ=力であるというアイデアを導入し、音とはさまざまな社会身体に対してさまざまに作用し現れるものであることが提起された。

第4章では、第3章で提示したイメージ=力としての音というアイデアにおける二つの側面を、具体的な事例から検討した。章前半では、歴史学者アラン・コルバンによる、19世紀フランスの農村・都市におけるサウンドスケープを論じた『音の風景』をもとに、この事例において例えば鐘の音という力が、さまざまな人間集団としての社会身体に作用しまとめ上げるものであることが述べられ、そして章後半では、客体化された音のイメージも、一方では客体化されたイメージの平面へとまとめあげられ蓄積されるが、また一方で身体に対して働きかけ多様なイメージ経験を生み出すものであることが人類学者ステファン・ヘルムライヒの深海の民族誌と「変換の人類学」の議論を参照しながら示された。またそのなかで、サウンドスケープが、振れ幅があり多層的な「聴覚的イメージの平面」として捉え直すことができることを明らかにした。